動物たちの記憶
カミサンの読書会の仲間の人たちがそのグループの通信に 『牛を飼っていた頃の思い出話』 を書いているのを
読んでぼくもいろいろ思い出した事を書いてみようと思いました。
もう50年前後も昔のことになりますが、ぼくの実家は田舎の町の駄菓子屋さんでした。
普段、店は母が開けていて、父は駄菓子のいっぱい詰まったブリキの一斗缶を5缶も6缶も自転車に括りつけて
毎日5kmとか10kmとか離れた方々の山向こうの農村地帯の方へ駄菓子の卸し行商に行っていました。
父は元来、動物が好きで、時々ヒヨコや兎の子供やヤギの子供を自転車に積んで帰って来ました。
ニワトリを7,8羽とか中くらいまで育ったヤギを一頭積んで帰宅することもありました。
仔ヤギや子ウサギは卸しの駄菓子の代金の代わりだったのかもしれませんし、そういう動物の仲介売買仕事も
していたようでもありました。(持って出たお菓子が売れた日は荷台が軽くなるわけで、60cm位の竹籠に入れた
そういう動物たちを運んで戻りました。)
別の日には薩摩芋やジャガ芋をたくさん持ち帰ることもありました。(それも物々交換だったのかもしれません。)
家には時々遠い町から肉屋さんが来ていました。多分製肉工場の人だったのでしょう。
塚本精肉店さんと聞いていたように思います。(ぼくがまだ5,6歳か7,8歳の頃でしたからウル憶えです。)
ぼくは家で(父が持ち帰ってきた)その動物の子供たちと遊びながら草や餌を与えて次々に育てたものでした。
ヤギはかなり小さな子ヤギでも6,7歳の頃のぼくの腕力と互角の体力がありました。
いつも家から4,5分歩いて町の中を流れている川の土手まで連れて行き、雑草を食べさせて帰るのですが
20分かもう少し長時間だったかずっと草を食べ続けているので途中で食べるのを止めさせて(食べ過ぎると体を
こわす恐れがあるからです)頸につなげた綱を引いて帰ろうとするのですが、この時がなかなか大変でした。
ヤギにしてみればまだまだ食べたい草があっちにもこっちにもいっぱいあるのに、途中で引っ張られて食べさせて
もらえなくなるのが嫌なわけで、すごい力で踏ん張って帰ろうとしません。
それでもぼくが引っ張り続けるとぼくの方にゴツンゴツンと体当たりをしてきて抵抗します。(ヤギは頭でゴツンと
かち挙げて攻撃してきます)
仕方なくもう少しだけ草を食べさせてもう一度ぼくの渾身の力で引っ張って草いっぱいの土手から草のない道まで
斜めに3mか5mの距離を引きずり上げてようやくのことで家まで連れ帰るわけです。
一週間に一度か二度、そうして連れて行き、他の日は別の遠い方の川の土手からたくさんの雑草や笹の枝葉を
刈り取ってきて納屋で食べさせるのです。
ヤギは口を斜めに動かして摺りすりと何度も動かしながら段々に笹の枝葉を咀嚼して行きます。
その食べ方がぼくは好きでいつでも直接手で持ってヤギの口に草を与え続けて見ていて飽きませんでした。
その時ちょっと笹の枝をぼくが引っ張って簡単に食べさせないようにするとヤギはムキになって口でくわえた葉っぱ
をギシギシと自分の方へ引っ張って食べようとします。(なんというかちょうど綱引きのようにしてぼくは遊びながら
給餌をしたものでした。)
けれどそんな子ヤギ時代は2,3カ月もするとお終いで、体は二回り位大きくなってしまい、ぼくより力が強くなって
もうぼく一人では簡単に川の土手へは連れて行けなくなりますのでそれからは家の納屋だけで飼うのです。
長い間(3年間位だったでしょうか)我家ではずっと母さんヤギ(乳ヤギ)も飼っていました。
家でヤギの乳を飲むためでした。(とくに体が弱かった幼児期のぼくのためでもあったようです。)
普段は母が(アルマイト製で外側が真っ黒に焦げ付いてボコボコにへこんだ)鍋の中にヤギの乳を搾って
“へっつい” と呼んでいた薪で焚く竈(かまど)で煮沸して、綿布巾で濾しながら丼茶碗に移し分けたものを飲む
のです。
時々ぼくも真似をして自分で搾ったものですが小児の小さな手ではなかなかうまく搾乳できませんでした。
こうして書いていると半世紀も前のヤギの乳の味が口の中に薄っすらと甦ってくるような気がします。
今ではほとんど “工業的” に生産された牛乳を飲み慣れてしまったので、匂いがきついと言われるヤギの乳を
飲んでどう感じるか判りませんが、当時はおいしいと思って飲んでいました。
その母さんヤギは晴れた日には納屋の中には入れないで、番犬代わりだったのか外の厠の反対向こう畑側に
つないでいたので、時々夜中に便所へ行きたくて我慢できず行くときに真っ暗い外へ出て厠まで数歩あるく間や
用を足している間にゴトゴト、ガサッと音がすると、昼間は何とも思わないのに急にお化けや泥棒が来たのでは
ないかと怖くなって用足しもそこそこに慌てて母屋へ戻り、寝床の母の布団の中へもぐり込んで母にしがみついて
やっと安心してもう一度眠ったものでした。
ウサギもヒヨコも大きくなって親兎や鶏になり子どもや卵を産むようになると、今度はまたその子供たちを育てる
ことにして、大きくなったヤギやウサギや成長しても卵を産まない雄鶏を遠い町からやってくるあの塚本肉屋さんに
売ってしまうのです。(売られた動物たちはハムになったのだそうです。)
育てた鶏は時々家でも “ツブして” 食べていました。
家の裏は小庭に続いて子供時代のぼくにとっては割合広い畑を作っていました。(と言ってもせいぜい100坪か
150坪位だったのだろうと思います。)
年に数回、その畑の真中で父が大きく育った鶏の内、卵をあまり産まなくなった一羽を “ヒネル”(ほふる)のを
いつも近くで見ていました。
ヒネってバラした鶏の肉はいつでも半分くらい近所の家々におすそ分けして、残りを骨まで煮込んで家で食べる
のです。そういう日はご馳走だなあと思って嬉しく食べました。とくに内臓の卵の黄身の部分が葡萄の房のように
いくつもつながっているのが美味かったのが忘れられません。
ぼくが育てた動物たちが売られてゆくのはだいたい年末が近づく頃だったように記憶しています。
代金に足してお正月の新しいビニールのジャンパーとか綿ズボンとか下駄を買ってもらい少年マンガ雑誌の
お正月増刊号も本屋さんへ買いに行きました。
買われて行く動物たちにはかわいそうだと思いながらも自分で育てて(働いて)売って得た小遣いや買ってもらった
品々を身につけるのは誇らしく嬉しい気持ちにもなったものでした。(隣り近所にも同様に家畜を飼育している子供
たちが何人かいました。)
それより以前に我が家では経済動物として七面鳥をたくさん飼ったこともあったそうです。
全く記憶に無いのですが、幼児だったぼくがあまりに怖がって泣くので母が飼育を諦めたのだそうです。
ぼくが小学校を卒業する頃に、母は駄菓子屋の店をたたみました。
我家の屋号は 『久能屋(くのや)』 と謂いました。今、ぼくの手元にその頃の僅かばかりの思い出の品が残って
います。(保存、運送用の菓子入れ木箱や綺麗な御遣い物用紙袋など、看板は行方不明になりました。)
町内の狭い範囲に我家を入れて4軒の駄菓子屋があったのですが、母の意思で我家の店ではくじ引き物や当て
物の販売をあまり、というか殆どしていませんでした。
例外的に家でも売っていたくじ引き物は飴玉の大きい小さいがあるのをタコ糸で結んであって、その糸の端を
引っ張ってうまくいくと大きいイチゴやリンゴの形をした飴が引っ張れてくる、そんなくじというか当て物などでした。
(母に言わせるとそれは外れても普通の値段で買うのと同じ大きさの飴が貰えるからいいのだということでした。)
同じような理由で紙箱の蓋部分を指で強く押して破ると中からかわいい陶器の動物の人形などが出てくるのも
ありましたが、それもなんというか “当たるか外れるか” というスリルや、景品に多かった鉄砲や戦闘機、戦車等
の武器、兵器のミニチュアなどが隠されているような当て物ではなくて、だいたい同じような優しい人形やおもちゃ
などが出てくるから子供たちにとって悪くないのだと母は考えていたようでした。
それがいわゆるバクチ嫌いで戦争嫌いな母の姿勢だったわけですが、子供たちの射幸心を刺激しない店では
とても売り上げは伸びません。(息子のぼくは自分の家が駄菓子屋さんなのに毎日他所の店へ当て物買いに
行っていた位です。)限定されたエリアの、つまり隣近所の小学生やそれより小さい幼児たちが親から貰う1日5円
かそこらの小遣い銭を当てにした営業が、そんな売り物と売り方では成り立つはずもなかったのでしょう。
ただ、あの母の姿勢を見ていたことが今のぼくの心情に大きい影響を及ぼしていることは確かです。
それで母は店をたたんだ後、その店のスペースで今度は小鳥のカナリヤを飼い始めました。(繁殖飼育して出荷
しようというわけです。)
最初10ケージの20~30羽ばかりで飼い始めたカナリヤはぼくが中学3年生になる頃まで少しづつ買い増し飼育を
してやがて100羽を超えました。
ぼくは母の手伝いをして登校前の少しの時間、カナリヤの籠の中の餌替え、水替え、鳥の体調観察をしてその前後
に自分たちもみそ汁と御飯だけの朝食を摂るというようなライフサイクルになりました。
それが高校生になるまで続いて、卵も産まれヒナも孵せるようになり、ついに最多飼育時160羽を超えるまでになり
やっと10羽、20羽と出荷できるようになった矢先に、母が高血圧症で倒れて小鳥の面倒を見切れなくなってしまい
ました。
それで已む無く全てのカナリヤを世話役でブローカーだった近所の人にただで引き取ってもらうことになりました。
(そこはたまたまぼくの高校のS先生のお父さんの家でした。)ぼくが高校1年か2年の時でした。
その鳥たちの運搬をぼくは一人で全てやり終えましたが、そんなわけで結局我が家ではこの時、母子で数年間
働いた分の代償を全く得ることが出来ませんでした。もちろん投下資本分の回収もできませんでした。
それよりずっと以前に短期間でしたが牛を家の納屋で飼っていた時期もありました。
牛はある日どこからか父親が牽いて家へ連れてきました。
どうやらお腹に赤ちゃんがいて、しばらく家で世話をしてうまく仔牛が産まれたらその仔牛を家でもらって
育てられるという本当のウマイ話(ウシですが)だったようでしたが、残念ながらその牛の赤ちゃんは死産でした。
ぼくは(たぶん7,8歳だったと思いますが)生まれて初めて牛のお産の光景をみました。
しかし牛のお尻の方から突然長い棒が出てきて何が起きているのか理解できませんでした。
ドキドキする時間の経過でした。それが赤ちゃん牛の足だったのです。
それから暫くして母牛はどこかへ連れて行かれて、空いた納屋のスペースにはまた仔ヤギがやって来ました。
牛のお産があったのは昭和30年代前半のことで、カナリアを飼育したのが昭和37年~40年頃のことでした。
こんな風に書いてみるとまるでものすごい山奥の田舎の話だったように感じられますが、旧くからの城下町で
東海道の宿場町でもあった人口数万人の市の、我家はその町の中心の城跡から歩いて子供の足でもたった10分
ほどの距離にあったありふれた住宅地の中の一軒でした。
きっと当時にはまだ日本中のどこの町でも村でもよく似た風景や光景が見られたに違いありません。
第二次大戦後の十数年を経て、米国の世界軍事戦略を二国間条約にすり替えた1960年の日米安保条約(改定)
に対して 「また戦争をするのではないか」 という国民の、当時の政府、岸内閣に対する不安と怒りの高まりを
抑え込み誤魔化すために 「所得倍増計画」 なるスローガンを新たな錦の御旗になぞらえた後継・池田内閣の
新・国家主義政策で日本中を 「高度経済成長」 の津波が覆い、工業製品の加工、輸出最優先の資本主義経済原
理が席巻する中で、農業と農的な生産活動はどんどん切り捨てられて行き、地産地消の小規模経済圏は解体され
農家までもが遠隔生産地野菜を買って食べなければならないという農協主導の農産物の地域選別集約化と量産化
以来、現在まで続く 「農家・農業が “資本による管理、工業化” システムに組み込まれて行く」 そういう時代の
始まりの頃でした。
我が家に度々小さい動物たちを持ち帰った父は40年前に世を去り、所得倍増計画の国策に先駆けて中卒で都会
へ働きに出て、やがて数年後に夢破れて帰省してからはずっと地元で暮らして家族を持った長兄も10年近く前に
60年余の生涯を終えました。それより数年前に母もすでにこの世を離れていました。
50年も経てば、一つの家族の構成も歴史も現状も何もかも変化して、かつてぼくが生まれ育った地方の小さな町の
風景も在り様も今ではすっかり昔日の面影はなくなりました。
乳を搾って飲むために母ヤギを飼う家など今ではありません。自分の家で卵を食べるために鶏を飼う家もありません。小川や池から子供たちが捕ってきた小魚やシジミ貝をご飯のおかずにする家もなくなりました。
こうして幼年時代の記憶をたどっているぼく自身も、今では父や長兄が亡くなった歳に近づいてきました。
やがていつかぼくの人生にも終点が来て、ぼくをとりまく記憶の中の動物たちと一緒に永遠に消えて行くのです。
読んでぼくもいろいろ思い出した事を書いてみようと思いました。
もう50年前後も昔のことになりますが、ぼくの実家は田舎の町の駄菓子屋さんでした。
普段、店は母が開けていて、父は駄菓子のいっぱい詰まったブリキの一斗缶を5缶も6缶も自転車に括りつけて
毎日5kmとか10kmとか離れた方々の山向こうの農村地帯の方へ駄菓子の卸し行商に行っていました。
父は元来、動物が好きで、時々ヒヨコや兎の子供やヤギの子供を自転車に積んで帰って来ました。
ニワトリを7,8羽とか中くらいまで育ったヤギを一頭積んで帰宅することもありました。
仔ヤギや子ウサギは卸しの駄菓子の代金の代わりだったのかもしれませんし、そういう動物の仲介売買仕事も
していたようでもありました。(持って出たお菓子が売れた日は荷台が軽くなるわけで、60cm位の竹籠に入れた
そういう動物たちを運んで戻りました。)
別の日には薩摩芋やジャガ芋をたくさん持ち帰ることもありました。(それも物々交換だったのかもしれません。)
家には時々遠い町から肉屋さんが来ていました。多分製肉工場の人だったのでしょう。
塚本精肉店さんと聞いていたように思います。(ぼくがまだ5,6歳か7,8歳の頃でしたからウル憶えです。)
ぼくは家で(父が持ち帰ってきた)その動物の子供たちと遊びながら草や餌を与えて次々に育てたものでした。
ヤギはかなり小さな子ヤギでも6,7歳の頃のぼくの腕力と互角の体力がありました。
いつも家から4,5分歩いて町の中を流れている川の土手まで連れて行き、雑草を食べさせて帰るのですが
20分かもう少し長時間だったかずっと草を食べ続けているので途中で食べるのを止めさせて(食べ過ぎると体を
こわす恐れがあるからです)頸につなげた綱を引いて帰ろうとするのですが、この時がなかなか大変でした。
ヤギにしてみればまだまだ食べたい草があっちにもこっちにもいっぱいあるのに、途中で引っ張られて食べさせて
もらえなくなるのが嫌なわけで、すごい力で踏ん張って帰ろうとしません。
それでもぼくが引っ張り続けるとぼくの方にゴツンゴツンと体当たりをしてきて抵抗します。(ヤギは頭でゴツンと
かち挙げて攻撃してきます)
仕方なくもう少しだけ草を食べさせてもう一度ぼくの渾身の力で引っ張って草いっぱいの土手から草のない道まで
斜めに3mか5mの距離を引きずり上げてようやくのことで家まで連れ帰るわけです。
一週間に一度か二度、そうして連れて行き、他の日は別の遠い方の川の土手からたくさんの雑草や笹の枝葉を
刈り取ってきて納屋で食べさせるのです。
ヤギは口を斜めに動かして摺りすりと何度も動かしながら段々に笹の枝葉を咀嚼して行きます。
その食べ方がぼくは好きでいつでも直接手で持ってヤギの口に草を与え続けて見ていて飽きませんでした。
その時ちょっと笹の枝をぼくが引っ張って簡単に食べさせないようにするとヤギはムキになって口でくわえた葉っぱ
をギシギシと自分の方へ引っ張って食べようとします。(なんというかちょうど綱引きのようにしてぼくは遊びながら
給餌をしたものでした。)
けれどそんな子ヤギ時代は2,3カ月もするとお終いで、体は二回り位大きくなってしまい、ぼくより力が強くなって
もうぼく一人では簡単に川の土手へは連れて行けなくなりますのでそれからは家の納屋だけで飼うのです。
長い間(3年間位だったでしょうか)我家ではずっと母さんヤギ(乳ヤギ)も飼っていました。
家でヤギの乳を飲むためでした。(とくに体が弱かった幼児期のぼくのためでもあったようです。)
普段は母が(アルマイト製で外側が真っ黒に焦げ付いてボコボコにへこんだ)鍋の中にヤギの乳を搾って
“へっつい” と呼んでいた薪で焚く竈(かまど)で煮沸して、綿布巾で濾しながら丼茶碗に移し分けたものを飲む
のです。
時々ぼくも真似をして自分で搾ったものですが小児の小さな手ではなかなかうまく搾乳できませんでした。
こうして書いていると半世紀も前のヤギの乳の味が口の中に薄っすらと甦ってくるような気がします。
今ではほとんど “工業的” に生産された牛乳を飲み慣れてしまったので、匂いがきついと言われるヤギの乳を
飲んでどう感じるか判りませんが、当時はおいしいと思って飲んでいました。
その母さんヤギは晴れた日には納屋の中には入れないで、番犬代わりだったのか外の厠の反対向こう畑側に
つないでいたので、時々夜中に便所へ行きたくて我慢できず行くときに真っ暗い外へ出て厠まで数歩あるく間や
用を足している間にゴトゴト、ガサッと音がすると、昼間は何とも思わないのに急にお化けや泥棒が来たのでは
ないかと怖くなって用足しもそこそこに慌てて母屋へ戻り、寝床の母の布団の中へもぐり込んで母にしがみついて
やっと安心してもう一度眠ったものでした。
ウサギもヒヨコも大きくなって親兎や鶏になり子どもや卵を産むようになると、今度はまたその子供たちを育てる
ことにして、大きくなったヤギやウサギや成長しても卵を産まない雄鶏を遠い町からやってくるあの塚本肉屋さんに
売ってしまうのです。(売られた動物たちはハムになったのだそうです。)
育てた鶏は時々家でも “ツブして” 食べていました。
家の裏は小庭に続いて子供時代のぼくにとっては割合広い畑を作っていました。(と言ってもせいぜい100坪か
150坪位だったのだろうと思います。)
年に数回、その畑の真中で父が大きく育った鶏の内、卵をあまり産まなくなった一羽を “ヒネル”(ほふる)のを
いつも近くで見ていました。
ヒネってバラした鶏の肉はいつでも半分くらい近所の家々におすそ分けして、残りを骨まで煮込んで家で食べる
のです。そういう日はご馳走だなあと思って嬉しく食べました。とくに内臓の卵の黄身の部分が葡萄の房のように
いくつもつながっているのが美味かったのが忘れられません。
ぼくが育てた動物たちが売られてゆくのはだいたい年末が近づく頃だったように記憶しています。
代金に足してお正月の新しいビニールのジャンパーとか綿ズボンとか下駄を買ってもらい少年マンガ雑誌の
お正月増刊号も本屋さんへ買いに行きました。
買われて行く動物たちにはかわいそうだと思いながらも自分で育てて(働いて)売って得た小遣いや買ってもらった
品々を身につけるのは誇らしく嬉しい気持ちにもなったものでした。(隣り近所にも同様に家畜を飼育している子供
たちが何人かいました。)
それより以前に我が家では経済動物として七面鳥をたくさん飼ったこともあったそうです。
全く記憶に無いのですが、幼児だったぼくがあまりに怖がって泣くので母が飼育を諦めたのだそうです。
ぼくが小学校を卒業する頃に、母は駄菓子屋の店をたたみました。
我家の屋号は 『久能屋(くのや)』 と謂いました。今、ぼくの手元にその頃の僅かばかりの思い出の品が残って
います。(保存、運送用の菓子入れ木箱や綺麗な御遣い物用紙袋など、看板は行方不明になりました。)
町内の狭い範囲に我家を入れて4軒の駄菓子屋があったのですが、母の意思で我家の店ではくじ引き物や当て
物の販売をあまり、というか殆どしていませんでした。
例外的に家でも売っていたくじ引き物は飴玉の大きい小さいがあるのをタコ糸で結んであって、その糸の端を
引っ張ってうまくいくと大きいイチゴやリンゴの形をした飴が引っ張れてくる、そんなくじというか当て物などでした。
(母に言わせるとそれは外れても普通の値段で買うのと同じ大きさの飴が貰えるからいいのだということでした。)
同じような理由で紙箱の蓋部分を指で強く押して破ると中からかわいい陶器の動物の人形などが出てくるのも
ありましたが、それもなんというか “当たるか外れるか” というスリルや、景品に多かった鉄砲や戦闘機、戦車等
の武器、兵器のミニチュアなどが隠されているような当て物ではなくて、だいたい同じような優しい人形やおもちゃ
などが出てくるから子供たちにとって悪くないのだと母は考えていたようでした。
それがいわゆるバクチ嫌いで戦争嫌いな母の姿勢だったわけですが、子供たちの射幸心を刺激しない店では
とても売り上げは伸びません。(息子のぼくは自分の家が駄菓子屋さんなのに毎日他所の店へ当て物買いに
行っていた位です。)限定されたエリアの、つまり隣近所の小学生やそれより小さい幼児たちが親から貰う1日5円
かそこらの小遣い銭を当てにした営業が、そんな売り物と売り方では成り立つはずもなかったのでしょう。
ただ、あの母の姿勢を見ていたことが今のぼくの心情に大きい影響を及ぼしていることは確かです。
それで母は店をたたんだ後、その店のスペースで今度は小鳥のカナリヤを飼い始めました。(繁殖飼育して出荷
しようというわけです。)
最初10ケージの20~30羽ばかりで飼い始めたカナリヤはぼくが中学3年生になる頃まで少しづつ買い増し飼育を
してやがて100羽を超えました。
ぼくは母の手伝いをして登校前の少しの時間、カナリヤの籠の中の餌替え、水替え、鳥の体調観察をしてその前後
に自分たちもみそ汁と御飯だけの朝食を摂るというようなライフサイクルになりました。
それが高校生になるまで続いて、卵も産まれヒナも孵せるようになり、ついに最多飼育時160羽を超えるまでになり
やっと10羽、20羽と出荷できるようになった矢先に、母が高血圧症で倒れて小鳥の面倒を見切れなくなってしまい
ました。
それで已む無く全てのカナリヤを世話役でブローカーだった近所の人にただで引き取ってもらうことになりました。
(そこはたまたまぼくの高校のS先生のお父さんの家でした。)ぼくが高校1年か2年の時でした。
その鳥たちの運搬をぼくは一人で全てやり終えましたが、そんなわけで結局我が家ではこの時、母子で数年間
働いた分の代償を全く得ることが出来ませんでした。もちろん投下資本分の回収もできませんでした。
それよりずっと以前に短期間でしたが牛を家の納屋で飼っていた時期もありました。
牛はある日どこからか父親が牽いて家へ連れてきました。
どうやらお腹に赤ちゃんがいて、しばらく家で世話をしてうまく仔牛が産まれたらその仔牛を家でもらって
育てられるという本当のウマイ話(ウシですが)だったようでしたが、残念ながらその牛の赤ちゃんは死産でした。
ぼくは(たぶん7,8歳だったと思いますが)生まれて初めて牛のお産の光景をみました。
しかし牛のお尻の方から突然長い棒が出てきて何が起きているのか理解できませんでした。
ドキドキする時間の経過でした。それが赤ちゃん牛の足だったのです。
それから暫くして母牛はどこかへ連れて行かれて、空いた納屋のスペースにはまた仔ヤギがやって来ました。
牛のお産があったのは昭和30年代前半のことで、カナリアを飼育したのが昭和37年~40年頃のことでした。
こんな風に書いてみるとまるでものすごい山奥の田舎の話だったように感じられますが、旧くからの城下町で
東海道の宿場町でもあった人口数万人の市の、我家はその町の中心の城跡から歩いて子供の足でもたった10分
ほどの距離にあったありふれた住宅地の中の一軒でした。
きっと当時にはまだ日本中のどこの町でも村でもよく似た風景や光景が見られたに違いありません。
第二次大戦後の十数年を経て、米国の世界軍事戦略を二国間条約にすり替えた1960年の日米安保条約(改定)
に対して 「また戦争をするのではないか」 という国民の、当時の政府、岸内閣に対する不安と怒りの高まりを
抑え込み誤魔化すために 「所得倍増計画」 なるスローガンを新たな錦の御旗になぞらえた後継・池田内閣の
新・国家主義政策で日本中を 「高度経済成長」 の津波が覆い、工業製品の加工、輸出最優先の資本主義経済原
理が席巻する中で、農業と農的な生産活動はどんどん切り捨てられて行き、地産地消の小規模経済圏は解体され
農家までもが遠隔生産地野菜を買って食べなければならないという農協主導の農産物の地域選別集約化と量産化
以来、現在まで続く 「農家・農業が “資本による管理、工業化” システムに組み込まれて行く」 そういう時代の
始まりの頃でした。
我が家に度々小さい動物たちを持ち帰った父は40年前に世を去り、所得倍増計画の国策に先駆けて中卒で都会
へ働きに出て、やがて数年後に夢破れて帰省してからはずっと地元で暮らして家族を持った長兄も10年近く前に
60年余の生涯を終えました。それより数年前に母もすでにこの世を離れていました。
50年も経てば、一つの家族の構成も歴史も現状も何もかも変化して、かつてぼくが生まれ育った地方の小さな町の
風景も在り様も今ではすっかり昔日の面影はなくなりました。
乳を搾って飲むために母ヤギを飼う家など今ではありません。自分の家で卵を食べるために鶏を飼う家もありません。小川や池から子供たちが捕ってきた小魚やシジミ貝をご飯のおかずにする家もなくなりました。
こうして幼年時代の記憶をたどっているぼく自身も、今では父や長兄が亡くなった歳に近づいてきました。
やがていつかぼくの人生にも終点が来て、ぼくをとりまく記憶の中の動物たちと一緒に永遠に消えて行くのです。
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