アメリカへ出掛けていた旧い知り合いが出遭った Ryokoさんの歌
ぼくはどういう訳だか子どもの頃から信州が大好きです。
最初に南アルプスの山里風景を想像したのは小学校の高学年になった頃でした。
学習雑誌のグラビア記事を読んで、なんだかそこが自分の本当の故郷のような錯覚(夢想)をしてなんとなくいつかそっちの方へ行って暮らすようになるのではないかと妄想していましたが、実際には空想とは違う今の暮らし方になりました。
けれども信州好きはずっと変りませんでした。
太平洋岸に近い温暖な土地で生まれて育ったぼくは、1960年代末の18歳の時に初めて信州へ一人旅をして以来、今までにもう何度、長野県のあちこちを旅したことか数えきれません。
北アルプス、中央アルプス、南アルプスの3000メートル級の高山地帯の本格登山と縦走は一度もしたことがありませんが、山麓は随分歩きました。 そしてキャンプや車中泊も何十回も楽しみました。
1980年代後半から1999年までの10数年間は、毎年3ヶ月位はその地のどこかしらで働きながら暮らして居たこともありました。 その頃一人で作った高原の掘立小屋は、去年息子が友人たちと訪ねた時、まだちゃんと建って残っていたようです。(その小屋は戦後に開拓農民が入植した高原の酪農地域、現在は酪農と高原野菜の生産地域にあります。 子供たちが小学生の頃、夏休みを家族で過ごすのにそこでしばらくキャンプ暮らしをしたりしていました)
その後も2005年頃までは年に何度も信州へ足を延ばしていたのですが、ここ5,6年は現在の生活に追われていて、なかなか信州通いができなくなっていて残念です。
ちょっと大げさに言えばぼくにとって信州は自分自身の基礎的生命力(身心)の再生、再構築の場になっています。
今、東北の大地震、大津波、原発大事故の被害にあって犠牲になり、避難して暮らさざるを得ない方々への思いの中で、ぼくはできるだけ多くの方々にご自分の力を奮い起してもう一度生き延びるチャレンジをしてもらいたいと願っています。(みんなで協力して掘立避難所を立てて頑張っている方々もおられると聞きました)
しかしぼくなんかはできれば何か手伝いたいとウジウジ思っているばかりで実際に被災されている人々には直接的には何の助けにもなっていないのが恥ずかしいです。
旧い信州の知人の一人に、家でも畑でも仕事でも何でも大地と木々と雑草とごろた石ばかりの何もない所から自分で労働して作りだす名人がいます。 彼は今では全国的な有名人で、その無手勝流の家づくりを頼まれてアメリカまで行ったりしている人です。
この人の行動力はすごいです。 今回の震災に際しても、もちろん自前、自力で支援活動に取り組んでいて、その手作り作業の支援ネットワークは例えば信州から医療チームを直接現地へ送り込む手伝いなど、お金はないけどやれることはやる!という姿勢を一貫して貫いています。(彼が自分で作った石窯で焼くパンも重くて固くてうまい!)
その彼がこの大震災の時期に、アメリカで出会った Ryokoさんというレゲエシンガー・ソングライターの歌を今日は転載しました。(彼女たちの行動記録の一部でもあります)
↓ ↓
http://www.youtube.com/watch?v=DqSlIsoWloo
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彼が帰国前日にロサンゼルスで出遭った時、“RYO”(Ryoko)さんは仲間と共に彼女の音楽で(アメリカの人々に呼びかけて)東北の人々を支援するための募金活動をしていたそうです。(彼女のブログによれば3月12日には既に最初の行動を起こしています)
そして準備ができるやいなや直ちに東北地方へやって来て、4月と5月と2度に亘って自分たちで車を運転し、あちこちへ自分たちで用意した支援物資を運びながら歌える場所では歌い、励まし合ってまたアメリカへ戻ったのだそうです。(現在も継続して日米間を行き来しながら応援団活動中とのことです)
彼女たちがその活動を通じてロサンゼルスと東京と被災地域のあちこちで自分たちで持参したガイガーカウンターで計測し続けた放射線の値は、どこでも大体同じような高さが検出されていたのだそうです。(原発事故には国境はないのです)
そのガイガー計測機は、被災地を離れる時に、現地でボランティア活動中だった信州の医師(鎌田實先生)に贈ってくれたとのことです。
とてもこんな行動力は発揮できないにしても、ぼくも何かできることをしたいと毎日思っています。
こちらはもうご覧いただいたことがある方はどうぞスルーして下さい。
↓ ( 島国の歌 ) ↓
http://www.youtube.com/watch?v=aKU5LInmisw
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( 2011・6・22、N・T )
最初に南アルプスの山里風景を想像したのは小学校の高学年になった頃でした。
学習雑誌のグラビア記事を読んで、なんだかそこが自分の本当の故郷のような錯覚(夢想)をしてなんとなくいつかそっちの方へ行って暮らすようになるのではないかと妄想していましたが、実際には空想とは違う今の暮らし方になりました。
けれども信州好きはずっと変りませんでした。
太平洋岸に近い温暖な土地で生まれて育ったぼくは、1960年代末の18歳の時に初めて信州へ一人旅をして以来、今までにもう何度、長野県のあちこちを旅したことか数えきれません。
北アルプス、中央アルプス、南アルプスの3000メートル級の高山地帯の本格登山と縦走は一度もしたことがありませんが、山麓は随分歩きました。 そしてキャンプや車中泊も何十回も楽しみました。
1980年代後半から1999年までの10数年間は、毎年3ヶ月位はその地のどこかしらで働きながら暮らして居たこともありました。 その頃一人で作った高原の掘立小屋は、去年息子が友人たちと訪ねた時、まだちゃんと建って残っていたようです。(その小屋は戦後に開拓農民が入植した高原の酪農地域、現在は酪農と高原野菜の生産地域にあります。 子供たちが小学生の頃、夏休みを家族で過ごすのにそこでしばらくキャンプ暮らしをしたりしていました)
その後も2005年頃までは年に何度も信州へ足を延ばしていたのですが、ここ5,6年は現在の生活に追われていて、なかなか信州通いができなくなっていて残念です。
ちょっと大げさに言えばぼくにとって信州は自分自身の基礎的生命力(身心)の再生、再構築の場になっています。
今、東北の大地震、大津波、原発大事故の被害にあって犠牲になり、避難して暮らさざるを得ない方々への思いの中で、ぼくはできるだけ多くの方々にご自分の力を奮い起してもう一度生き延びるチャレンジをしてもらいたいと願っています。(みんなで協力して掘立避難所を立てて頑張っている方々もおられると聞きました)
しかしぼくなんかはできれば何か手伝いたいとウジウジ思っているばかりで実際に被災されている人々には直接的には何の助けにもなっていないのが恥ずかしいです。
旧い信州の知人の一人に、家でも畑でも仕事でも何でも大地と木々と雑草とごろた石ばかりの何もない所から自分で労働して作りだす名人がいます。 彼は今では全国的な有名人で、その無手勝流の家づくりを頼まれてアメリカまで行ったりしている人です。
この人の行動力はすごいです。 今回の震災に際しても、もちろん自前、自力で支援活動に取り組んでいて、その手作り作業の支援ネットワークは例えば信州から医療チームを直接現地へ送り込む手伝いなど、お金はないけどやれることはやる!という姿勢を一貫して貫いています。(彼が自分で作った石窯で焼くパンも重くて固くてうまい!)
その彼がこの大震災の時期に、アメリカで出会った Ryokoさんというレゲエシンガー・ソングライターの歌を今日は転載しました。(彼女たちの行動記録の一部でもあります)
↓ ↓
http://www.youtube.com/watch?v=DqSlIsoWloo
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彼が帰国前日にロサンゼルスで出遭った時、“RYO”(Ryoko)さんは仲間と共に彼女の音楽で(アメリカの人々に呼びかけて)東北の人々を支援するための募金活動をしていたそうです。(彼女のブログによれば3月12日には既に最初の行動を起こしています)
そして準備ができるやいなや直ちに東北地方へやって来て、4月と5月と2度に亘って自分たちで車を運転し、あちこちへ自分たちで用意した支援物資を運びながら歌える場所では歌い、励まし合ってまたアメリカへ戻ったのだそうです。(現在も継続して日米間を行き来しながら応援団活動中とのことです)
彼女たちがその活動を通じてロサンゼルスと東京と被災地域のあちこちで自分たちで持参したガイガーカウンターで計測し続けた放射線の値は、どこでも大体同じような高さが検出されていたのだそうです。(原発事故には国境はないのです)
そのガイガー計測機は、被災地を離れる時に、現地でボランティア活動中だった信州の医師(鎌田實先生)に贈ってくれたとのことです。
とてもこんな行動力は発揮できないにしても、ぼくも何かできることをしたいと毎日思っています。
こちらはもうご覧いただいたことがある方はどうぞスルーして下さい。
↓ ( 島国の歌 ) ↓
http://www.youtube.com/watch?v=aKU5LInmisw
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( 2011・6・22、N・T )
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