ぼくにとっての “12月8日” (断片的随想)

 1941年、それは若者達には随分遠い昔のように思えるでしょうが、その年に生まれた人たちはどこの国や地域に於いても、社会の中でぼくたちの生活を支えるために働いて来られて、まだまだ殆どの方が各地で定年前後のお元気な暮らしをして居られる現役の方々なのです。(と言う事は、つまり1941年は決して “古い昔の時代ではない!” のです。)

 その年(昭和16年)の12月8日、日本はアジアの独裁帝国の盟主たらんとして、無謀にも世界戦争へと突入して行ったのでした。
 戦後生まれのぼくは、(この国が全ての犠牲者に重い責任を負うべき)戦争の実態を経験的には知りません。 ぼくにとっての戦争の記憶は、いまは亡き両親から聞いた幾つかの戦時中の体験話と、戦後の貧しい暮らしと父母の不安定な労働現場の思い出などからの推考によるものです。

 幼年時代(昭和30年代前半)、大家族のぼくの家ではまだ食糧も充分ではなくて、お米のご飯が直々不足して、サツマイモがお釜一杯に蒸かしてあったり、味噌汁の具のために近くの小川から蜆を採取してきたり、夕餉のお膳にすいとん汁しかない日もあったことなどは覚えています。
 それでも戦争は既に終わって10数年経っていたから、日々に身に迫る息苦しい不自由感や不安感、空襲への恐怖感などは露ほども感じなくて済んだわけでした。

 その内に食糧は充分に食べられるようになり、いつか着る物も箪笥から溢れて着替えが多すぎて困るようになり、貧乏なぼくでも小さな自家用車で家族と一緒に日帰り旅行位は出来るような現在の暮らしになりました。

 しかしこうしてぼくたちの暮らしが復興し、目に見えて物質的に豊かになり、人によってはモノもタマシイも捨てて平然と不遜な日常を送るようになった裏には、より豊かな国アメリカへ媚を売り、その米軍に基地を提供し、享楽を提供し、朝鮮戦争で使用される武器弾薬を作り、運び、ヴェトナム戦争で爆撃に飛び立つ戦闘機に燃料と兵器を補給し続け、世界中でアメリカのペット犬か妾のような卑屈な言動を重ねるという国家的欺瞞、犯罪的隷属的政策があることは広く周知の現実なわけです。 こういう国家の存立姿勢に対する国内外からの異議や反対の声には、我が国の為政者達は全くと言うほど耳を貸すことはありません。(コイズミの靖国参拝問題もその典型的態度です。)

 64年前の12月8日、日本が太平洋戦争(第二時大戦)へ突入して行くまでに、国内の全ての戦争反対勢力の口を封じて、軍国主義独裁政治を批判、揶揄することさえ出来なくしていった法律が 『治安維持法』 だったことは広く知られているし、二度と同じような状況を許すべきではないと、戦後の平和憲法ではわざわざ19条と21条を以って 『思想、良心の自由』 と、『表現の自由』 を国民の権利として定めているのにです。
 この12月8日、東京高裁では「戦争に反対する人たちのグループ」が、米軍の世界戦略に添うための自衛隊のイラク派遣に反対する自分達の主張、をビラにして配布していたことに対して「住居不法侵入罪」で有罪の判決を出しました。 これは大変なことです。 あってはならないことです。

 国民が国家の政策に異議を唱え、批判も反対も自由に言論が保障され、その批判に耐えて応えて為政者が国家の運営をしてこそ 『民主主義』 の制度と言えるのであって、邪魔になる国民の行動を法律によって規制して政策を無理強いして行く先には、奇しくも64年前の同じ日に戦争へ突入して行った「いつか来た道」への逆戻り政治が見えているばかりです。

 10数年前の12月8日、これも住民の反対運動を無視して建設を強行した福井県敦賀の危険な原子力発電所が、炉心冷却用のナトリウム水漏れのあわや大爆発かという危機的大事故を起こした日でもあったし、戦争に反対する姿勢の音楽活動をするようになっていたジョン・レノンが25年前に銃で射殺された悲劇の日でもあったことはよく知られていることです。
 何故かたまたま12月8日というこの日は、ぼくたちに 『戦争と平和について考るきっかけ』 を与えているような気がします。 余談ですがぼく自身、カッコイイ友人たちの力を借りて、初めてライヴハウスでバンドライヴを演った日も偶然ですが、ずーっとむかしの12月8日でした。(ぼくが作る曲は昔も今もずっと、3、4曲に1曲位が戦争や暴力的支配への反対を歌っているものです。)  ’05・12・8~10、記(11日、改筆)

 

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